今回お訪ねしたのは、赤坂の一等地にありバラエティ番組を中心に作っている制作会社「株式会社オイコーポレーション」。
社長は及川俊明氏。通称“オイちゃん”の名で、皆に親しまれている都会育ちの粋な好人物。
及川社長は、この春終了した長寿バラエティ「笑っていいとも!」の初回からラスト放送まで、32年間に渡って番組に携わった6人の主要スタッフの内のひとり。
今回は“いいとも!”のお話から、オイコーポレーション設立の経緯まで、じっくりお話をお聞します。
今回お訪ねしたのは、赤坂の一等地にありバラエティ番組を中心に作っている制作会社「株式会社オイコーポレーション」。
社長は及川俊明氏。通称“オイちゃん”の名で、皆に親しまれている都会育ちの粋な好人物。
及川社長は、この春終了した長寿バラエティ「笑っていいとも!」の初回からラスト放送まで、32年間に渡って番組に携わった6人の主要スタッフの内のひとり。
今回は“いいとも!”のお話から、オイコーポレーション設立の経緯まで、じっくりお話をお聞します。
Q:テレビ業界に入ったキッカケは? 日芸(日本大学芸術学部)に通っていた頃、テレビ朝日で学生アルバイトを始めたのがキッカケです。当時、まだテレビ朝日の社名は“NET”の時代です。
Q:初めて担当した番組は? 前田武彦さん司会の「ヤングアップ」と云う番組です。フォーリーブスやゴールデンハーフスペシャルなどが出ていました。この番組で、いま日本映像事業協会で副会長をやっている 森澤さん(WACホールディング)と会いました。私と同じ日芸の学生でした。同じ日芸仲間と云うことで、よく気が合い、助け合いましたね。「ヤングアップ」は生放送で、毎回視聴者プレゼントがありました。ある日、下手に置いてあるはずの視聴者プレゼント用のスニーカーがなくて、スタッフ一同大慌て!番組は、もう始まっている。その時、諦めかけていた私がふと見ると、スニーカーが 何と逆の上手に置いてあるじゃないですか!!カメラに映らないように下から恐る恐る投げ、森澤さんがあうんの 呼吸で見事キャッチ…なんて事もありましたね。 1年ぐらい一緒に働いていた後、森澤さんが他の番組に 移っちゃいました。
Q:忙しいAD業務と学業の両立は大変だったのでは? 当時、お世話になっていたプロデューサーが凄く理解のある方で色々と便宜を図ってくれました。例えば大学へ行くのに社旗がはためくハイヤーを用意してくれたり… プロデューサーのお陰で、なんとか授業を受け続ける事が 出来ましたので、今でも大変感謝しています。その他にも、温情ある先生に助けられました。 英語の長文を渡され、“これを訳したら卒業させてやる” なんて言われまして… 先輩ディレクターの知合いに英語堪能の国際線スチュワーデスさんがいたものですから、その方を紹介して頂き、 手伝ってもらったりとか。
Q:卒業後はどうなさったのですか? 知合いの構成作家の紹介で、フジテレビの関連会社に入りました。 当時、ちょうとスタジオアルタが出来る事になり、 私はスタジオアルタ担当になったんです。
Q:では、それが“いいとも!”を担当するキッカケになったんですね? そうです。1982年10月4日に“いいとも!”がスタートしたのですが、全体のチーフADとして携わったのが始まりです。
Q:ディレクターデビューも“いいとも!”ですか? はい。“いいとも!”の2年後、1984年に小堺さん司会の “ライオンのいただきます”が同じアルタから生放送で始まる事になって、“いいとも!”の担当ディレクター2人が移動に なったんです。その代わりに私がディレクターに昇格しました。 たしか29歳の頃ですね!!
Q:何曜日担当だったのですか? 木曜日です。当時のレギュラーには古舘伊知郎さんや鶴瓶さん がいましたね。 当時の印象深いエピソードなんですが… 私が視聴者のギモンを解決するコーナーの担当だった時、視聴者から“沖縄は何でNHK受信料が本土の半額なの?” と云うギモンが寄せられ、生放送中にいきなりノーアポで NHKに電話した事がありました。
Q:えー、それで? “いいとも!”の時間内にギモンを解決出来ず、小堺さんの番組 にコーナーが突入してしまった事がありまして、当時ちょっとした 話題になりましたね。しかし後日、NHK総務局長が直々に経緯を調べにきまして… まあ、別にやましい事はないので、しっかり対応させて頂きました。 当時勢いのある横澤班は、ハプニングもすべて笑いに変える 番組パワーがありましたね。フジで最初にやった24時間テレビ「第1回FNSスーパー スペシャル1億人のテレビ夢列島」(1987年7月18日OA) では、鶴太郎さんコーナー担当のADが新幹線に乗り遅れて しまったのですが…この失敗を逆手に取ってグランドフィナーレ では、“ADが時間内に帰ってこられるか?”なんて緊急企画に しちゃいましたからね。
Q:当時、“いいとも!”以外の横澤班のバラエティ番組も担当していた のですか? さんまさん司会の「テレビくん、どうも」や、 さんまさんと小堺さん司会の特番シリーズ 「さんま・一機のその地方でしか見られない面白そうな番組を 全国のみんなで楽しく見ちゃおうとする番組」(計6回放送) などを担当していました。あと“演芸大賞”や“爆笑ヒットパレード”などです。
Q:及川社長は“いいとも!”第一回からラスト放送まで、 ずっと携わった6人の主要スタッフの内のひとりとお聞きして いますが? はい、そうです。3月31日月曜日、お昼のラスト放送では エンディングで構成作家の高平哲郎さんたちと一緒に、 ステージに上げられました。
Q:32年の間に、番組内で立場はどう変わっていったのですか? 最初チーフADを2年やって、ディレクターを10何年。曜日担当ディレクターから、“増刊号”のディレクターになった後、 制作プロデューサーとして番組に携わっていました。
Q:“増刊号”のディレクターは、特に大変そうですね? 曜日担当の頃は、週に3日ぐらいアルタに行けばよかったのですが、“増刊号”の担当になってからは、毎日せっせとアルタに通っていました。あと編集が金曜日からじゃないと出来ないので、 時間的にタイトでしたね。
Q:制作プロデューサーになったのは、いつ頃ですか? 40代の中頃まではディレクターをやっていたので、その後です。
Q:オイコーポレーションを設立したのは、いつ頃ですか? “いいとも!”ディレクター当時の1990年9月です。最初はひとりで始め、フジテレビ以外からもお声がかかるようになり、知り合ったスタッフが参加して、徐々に人数が増えていきました。
Q:現在スタッフは何人いるのですか? 45人です。
Q:現在、番組制作及びスタッフが携わっている番組は? TBSが「アッコにおまかせ!」「王様のブランチ」「炎の体育会TV」 「いっぷく!」、フジテレビが「SMAP×SMAP」「もしもツアーズ」、NHKが「MUSIC JAPAN」などです。あとフジテレビでドキュメンタリー特番「サイエンスミステリー」も年に2、3回やっています。
Q:及川社長が“いいとも!”終了を聞いたのは? 昨年の秋口に終了を告げられました。レギュラーで最も長かったのが関根さん(1985年から約29年)で、次が鶴瓶さん(1987年から約27年)ですが… 番組は長くやればやるほど愛着が湧くので、終了を聞いた時は皆さん、淋しい思いをしたのではないですかね。
Q:会社として分岐点となった番組はありますか? TBSの日曜夜7時30分からやっていた三宅裕司さん司会の 「テレビ探偵団」ですかね。この番組で今、うちの取締役をやっているディレクターの宮本を始め、現在の主要スタッフと知り合いましたから。
そこで、現在オイコーポレーションの取締役を務めるディレクターの 宮本稔さんに、及川社長の人となりを聞いてみました!
Q:及川社長と知り合ったキッカケは? 宮本:「テレビ探偵団」でADとして、及川社長の下に就いたのが キッカケです。ボクが23歳の時ですから、かれこれ27年の 付き合いになります。
Q:オイコーポレーションに入ったキッカケは? 宮本:30歳前後の頃、仕事の面で凄く悩んでいた時期がありまして… 思い切って及川社長に相談したら、“うちに来るか?” と言ってくれて、ボクを含め4人で転がり込みました。
Q:及川社長はどんな人ですか? 宮本:年の離れたアニキ的存在です。27年の付き合いになりますけど、なにをするにも今まで一度も自分がお金を払った事はありません。ホント、親分肌と云う言葉がよく似合う人だと思います。
Q:最も信頼しているところは? 宮本:会社の仲間は勿論、タレントさん、番組、他の会社などの 悪口を一切言わないところですかね。
Q:及川社長の経営哲学をお聞きする事は? 宮本:及川社長はよく“会社の規模は40人がベスト”と言っています。これは、社長として社員に目が配れる人数は40人が限界だと言うことです。 そして“40人の次は200人の会社にしないとダメだ!”とも言います。これは社長以外にも下の人間をちゃんと育てられる社員が 5人出てくれば、会社は絶対に発展すると云うことです。
Q:今後、宮本さんがオイコーポレーションでやりたい事は? 宮本:及川社長にはお子さんがいないので、我々社員を子供のように可愛がってくれます。そして“俺の熱い血を受け継いでくれたら、俺は死んでいける”なんて言っていますので、“及川ブラッド”を若手社員に受け継ぐ、橋渡し役にボクがなれたら最高ですね。
宮本さんにお話を聞いている時、意外な人物がオイコーポレーション に登場。その人物は…元フジテレビのひょうきんディレクター荻野繁さん。 実は荻野さん、オイコーポレーション内で、ひとデスク借りて、 独立して仕事しているんです。
Q:現在、及川社長と仕事を一緒にしているんですか? 荻野:オイコーポレーションで、TBSのシリーズ特番 「明石家さんまが本気であすにでも住みたい街を探す旅」を やってるんですよ。
Q:それって、さんまさんが海外ロケにいく特番ですね? 荻野:そう。“ハワイ編”“マレーシア編”“ニュージーランド編”と 今まで3回やってます。
Q:さんまさん特番が立ち上がったキッカケは? 荻野:さんまさんとは、実は定期的に2人で会っているんだけど、雑談で“さんちゃん、旅番組やらないよね?”なんて聞いたら、 本人が意外に乗ってきて… さっそく企画書を作って、TBSへ持って行ったら通ったんですよ。
Q:なぜフジではなく、TBSに持って行ったんですか? 荻野:古巣のフジでやるよりも、違う局でやった方が 独立感が出るじゃない。それにフジテレビ退社後、他の局で バラエティ番組をやった元社員はいないんですよ。 だから特徴にもなるしね。
Q:“お笑い怪獣”さんまさんの番組を作る上で、最も苦労する点は? 荻野:大変なのは、やっぱり編集だね。 だってカメラが5、6時間は優に回ってるけど、全部面白いから!… それにさんまさんのオンエアチェックは、厳しいし!!まあ、これは嬉しい悲鳴で、フジからの長い付き合いでこの特番を引き受けてくれたさんまさんには、ホント感謝しています。
Q:最後に及川社長に一言 荻野:“いいとも!”の前“笑ってる場合ですよ!”からの付き合いだから、ずいぶん長いね。年は6歳ぐらい俺の方が上だけど、共に同時代を生き抜いてきたテレビ界の戦友として、大変信頼しています。 |
及川社長の生まれ、育ちは神奈川県大和市。“浮浪雲”の主人公のようなひょうひょうとしたキャラが“都会育ちのテレ屋さん”ぽくて、かっこいい人です。 僕、岩立も若き放送作家時代、“ひょうきん族”や“いいとも!”でオイちゃんとは一緒に仕事していて、どんな仕事も軽くこなす感じが都会の人ぽくて、シャレた人物だな…と感じていました。
インタビュアー:広報委員 有限会社オフィスぼくら 岩立 良作
写真撮影:広報委員 WACホールディング(株) 岡村 宇之
(2014年7月取材)