株式会社 ホリプロ
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「広報委員が行く!会社訪問」第37回は、「株式会社 ホリプロ」の堀 義貴社長を訪問。
ホリプロは大手芸能事務所として時代の最先端を走り続けています。又、映像制作、音楽制作、演劇等の公演など、幅広く事業を展開する総合エンターテイメント会社で、その成り立ち、そして社長の人となりまでお伺いしました。
インタビュアー:広報委員 (株)スーパーテレビジョン 松崎 俊顕
写真撮影:広報委員 WACホールディング(株) 岡村 宇之
(2018年11月取材)
JR目黒駅のほど近くにある、ホリプロの本社ビルにお邪魔しました。 ― では、早速インタビューを始めさせて頂きます。
創業は1960年からですから、もう58年ですね。
Q.ホリプロの社員数やタレント数は? 社員はホリプロ本体だけだったら290人ぐらいですかね。 目黒のこの4つのビルにいる関連も全部合わせると、約400人ぐらい。 そしてタレントは、400組前後だと思います。
それでは「株式会社ホリプロ」の概要を ― 株式会社ホリプロ 1960年(昭和35年)に堀威夫氏(ファウンダー最高顧問)が創業。(2019年1月現在) タレントの発掘・育成を強みとするマネージメント事業を中心として番組やCMを制作する映像事業・ミュージカルなどの演劇をプロデュースする公演事業など様々な事業を複合的に展開する総合エンターテイメント会社です。 設 立 昭和38年1月16日
資本金 1億円
従業員数 284名
会社の主な目的
また質問に戻りますが 社是というのが、私の父親の代から受け続けられていて、「文化をプロモートする人間産業」。 これがうちの会社の方針になっています。
Q.社是にはどんな思いが込められているんですか? もともと芸能プロダクションですから、タレントという人間を扱って、その人間の可能性を最大限に発揮できるようにするマネジメントも人間で、どうしてもオートメーションにできない仕事であると。 そして設立当時は、僕らが今やっているようなエンターテインメントという言葉がそんなに定着してない頃なんで、“大衆芸能”とか“興行”とか、そういう言い方をしてました。ただ伝統文化なんかより一段下に見られていたところがあって。でもそうじゃなくて、「我々がやっているエンターテインメントが、文化を作っていくんだ!」という思いを込めた言葉です。
― さてここで、堀義貴氏のプロフィールをご紹介していきます。 堀 義貴(1966年生まれ 52才) ホリプロ代表取締役社長 2002年36歳で就任 暁星中学・高校卒業 成蹊大学法学部卒業 (2019年1月現在) Q.ホリプロに入社する前は、ニッポン放送にいらっしゃったそうですね。 新入社員の時から編成にいたんですが、いろんな仕事をしました。イベントもやらされたし、本の出版もやらされたし、広報も宣伝も。一番多い時で1人で7種類ぐらいやってたんですよ。 7つの企画じゃなくて、まるで別々の仕事を同時にやってました。
Q.ラジオ番組の企画に携わって、出演されたこともあると? 新番組の企画をみんなでやってる時、僕より2つぐらい上の先輩が突然、「尾行する企画っておもしろいよね。付いて行きたくなっちゃう時ってあるよね」って話を始めて。(当時ストーカーって言葉ないんで)尾行をラジオ音声だけで実況中継する番組を作ったらおもしろくないか?っていう話になったんです。じゃあ試しに実際やってみようということで、スポーツ実況のアナウンサーが、あるターゲットの女性が家に帰るまでを延々と実況したんです。でも電車に乗ってると人なんて全然動かないし、実況にならないわけですよ。すると先輩が「解説がないとおもしろくないな」って言い始めて、「お前、解説やれ」ってことで、アナウンサーと僕が掛け合いをしてプロトタイプの番組を作ったんですよ。そしたら当時の上司がおもしろがって、伊集院光がやってた22時~25時の番組の中で、月~金の5分ベルトで放送することになったんです。 それで「タイトルは?」っていうんで、当時『さよなら李(り)香蘭(こうらん)』っていうドラマが話題だったんで、「じゃあ『さよなら尾行マン』でいいじゃないですか」って(笑)。
Q.テレビじゃ絶対できない企画ですね。どんな感じで収録してたんですか? 例えば、「九段下の駅です」ってところからスタートして、後ろ姿だけでターゲットを決めるんです。そして行けるところまで行くっていう。 DAT(録音機)をコートの下に忍ばして、胸元からマイクを出して、しゃべってるわけです。 僕は尾行評論家として横で解説して。編み物し始めたとかっていうとアナウンサーが、「解説の堀さん、この編み物はどういうことですかね?」「いや、そろそろ年が明けるとバレンタインデーだから、今からそれに備えて編み始めたんじゃないでしょうか?」「これは誰に渡すものでしょうかねぇ?」とか言って。いや、盛り上がりましたね(笑)。 途中で見失うことがほとんどでしたね。 当時Suicaもないんで、乗り換えられると清算で手間取っちゃったりして(笑)。 1年半ぐらいやりましたかねぇ。編成部員の仕事もしながら!
-ラジオ局ならではのインパクトのある企画ですね。 ニッポン放送って2年に1回ぐらい異動するんですよ。で、新入社員の時から編成にいて3年、『オールナイトニッポン』が結構半分ぐらい変わるって時で、いよいよ『オールナイト』のディレクター来るなって思ってたんですよ。当然ディレクターになりたいからラジオ局にいたので。でもそのままステイになっちゃった。さらに4年目も異動がなくて。 「ずっとこのままかよ。もう30歳過ぎちゃうぞ」って。30過ぎてから編集のやり方とか教わったりするのはどうなのかな…って思ってた時に、フジサンケイグループの政変(注:1992年に当時のグループ議長・鹿内宏明氏が解任された)っていうのがあって。 当時、産経新聞社の社長が、記者会見で「議長解任」ってやってるわけですよ。 僕はグループ議長がそんなに好きじゃなかったから「わー!」ってやってたんだけど、議長がまだニッポン放送の会長でもあったので上司から「お前ら、会長に対してなんだ!」っていわれて。 こんな状況なのにまだそんなこと言ってることに対して、「こりゃもうダメだ」と。そこでもう折れたって感じでした。 そんな時に私の親父から、「どうなったニッポン放送は?」って聞かれて。そして「ホリプロ来たらどうだ?」って言われたんです。でも、半年ぐらいイヤだイヤだって言ってたんですけど。
Q.最初は断っていたんですか? ホリプロがあまりに堅すぎるって思ってて。「あんな堅いところ、もたないから無理だよ」って言ってたんです。そしたら親父に「じゃあお前がニッポン放送みたいにすればいいじゃないか」って言われて「ああ、そうか」って。 それで映像だけはやったことがなかったので、「映像をやりたい」と思って入ったんです。
Q.ラジオと映像では、やっぱりかなり違いましたか? 根本的には違うと思うんですけど、やろうとしていることは全く一緒だと思います。どちらもお客のことを思ってるってことは間違いない。 ただ作り方としては、語弊はあるけども、ラジオの方が分かりやすいというか。映像は制約があり過ぎて、それが難しかったですね。 もうとにかくテレビ局の人たちは、画がないことには番組にならないっていうことを思っている人たちで、一方僕らは画がなくてもやってきたんだっていう意識もあって。視聴者も理解力はあると信じていたんですけど、もっとたくさん画を撮って来い、もっとうまく編集しろって言われる。 こんなに手間かけてやって、それで何が相乗効果があるのかなって思ったこともありました。 それに1つの番組を作るのに、おびただしい時間と人数がかかる。ラジオの場合、最低1人でもできるわけですよ。それが凄いギャップでしたね、
Q.局を辞めてプロダクションに移ったことでも、変化ありましたか? ラジオ局にいた時ってのは、僕はディレクターの経験はないんですけど、自分の企画が番組になるっていう前提ですよね。でも制作プロダクションとしてのホリプロは、どんなにいい企画を思いついても、局の人が「うん」って言わきゃ出来ないっていう。 そこのもどかしさはすごくありましたね。またその他に、受け入れる側のホリプロ社内は私の事をどうやって呼ぶかって、いろいろやってたらしいですけど、例えば、「堀さん?」「堀ちゃん?」結局は「義貴さん!」でしたね(笑)。 ただニッポン放送時代の編成部の僕を知ってる人たちは、すごい変なヤツなんだと思ってる人もいたし。変わってんだと思ってる人もいるし。だから全然評価がみんなバラバラだった。僕は昔からダラダラしてたんで、そのまんまダラダラ入って来たわけです。 みんなビックリしたんじゃないですか。毎晩飲みに行ってたし。 意外とコイツ普通だなとも、思われたかもしれない。 でも一番困ったのは、局の人間じゃなくなった瞬間からね、プロダクションの人間とか、レコード会社とか、まぁ見事に手のひらがひっくり返えりましたねぇ(笑)。 また呼び方なんですけど、「堀さん、堀さん」って来てた人がね、急に「堀ちゃん」になるし。 こっちからキャスティングのお願いで電話しても、「なんでホリプロの番組に出なきゃいけないんだよ」みたいな。「あ、人間っていうのはこういうもんなんだ」、いい経験をしましたね。 で、ホリプロでテレビの番組制作の部長になったりなんかすると、また「堀さん」に変わるわけですよ。さらに社長になったりしたら、「社長、社長!」とか言って。 テレビ局出身の関係者の皆さんも環境と立場が変わると、そういう悲哀は絶対舐めてるはずですね。
Q.そして社長に就任されたのはいつのことですか? 2002年だったと思います。36歳の時でした。
Q.堀社長がホリプロを展開していく中で、一番大切だと思うことはどんなことですか? この仕事、どうやっても限界産業なんです。 人間は歳とるし、いずれは死ぬし。どんなスターを作っても、未来永劫やっていくことってのはできない。また10代でデビューした人が、大人になってもずっとアイドルを続けるわけにはいかない。どっかで路線を変えるなり、お客さんのニーズの半歩先ぐらい行くようなアーティストってのを育てなきゃいけない。どうしても労働集約型の超限界産業ですよね。 その限界を広げていくために、かつては1回1回のギャラ商売が主だったところに、音楽出版作ったり、映像制作の部署を作ったり、今は舞台にも力を注いでいます。 でもどうやっても、人間はタレントもマネージャーも1日24時間で1カ所でしか働けない。 そこで限界を無限に広げるには、権利ビジネスなんだと思います。今やスマホで1人ワンプレーヤー必ず持っているわけですね。それを考えた時に、自分たちの自由になる権利を持つっていうのが、常に究極にありますよね。
Q.では、経営の観点から経理的な面で実践していることがありますか? ホリプロに入って、まず一番ビックリしたのが、3000円以上が稟議だったということですよ。 もうお茶も飲めないじゃないか、みたいな(笑)。ニッポン放送は1万円以上稟議だったんで。 だから出るお金はもちろん、入った時もビックリするぐらいシビアな会社だったですよ。ま、上場もしてたっていうこともあると思いますけど。とにかく月次の予算とか、確認とか、伝票の精算とか、この業界ではナンバーワンに厳しいと思います。 その代り、かける時はめいっぱいかけますね。ウチは社員全員にコンピュータを配布したのなんかものすごく早くて、20年以上前に配布してます。携帯の支給もどこの会社よりも早かったし。もう15年以上経つのかな。僕がここ入った時には誰も携帯なんか持ってなかったですからね。そういう意味では、良いと思ったモノにはすごくお金かけてます。
Q.先行投資はかかっても、その方が効率良くなるんでしょうね? ペーパーレスにしたくて、一昨年ぐらいから毎月の予算会議はもう紙なしにして、全部iPadでやってます。部長以上にはみんなiPadを支給して持ってるんで。会議は数字がパッパパッパ出てくるのを見ながらやる。めっちゃお金かけてますけどね。 社員の週報とかそういうのも全部デジタル、スマホで出来るようにしてます。そして月に深夜残業がある一定を越えると、担当の役員にアラートのメールが来ます。さらに深夜15時間、トータル60時間超えると、僕の所に「○○が60時間きょう超えた」って来るようになってるんです。 そして毎月、全社員の勤務時間が全て出て、ワースト10なんかも分かるんです。それを見て「どうやっても改善しろ!」っていうのを毎月やってます。
Q.予算の組み方でも意識していることがありますか? 予算は4年ぐらい前までは各部署に予算を作らせて、今年の目標っていうのをやらせてたんですけど、絶対前の年より低い予算にしかならないんです。でもそんなもん出しても意味がない。 予算は、とにかく前年比をオーバーするっていうのが予算で、それに合わせて予算を作るっていうのに変えたんです。ここ5年ぐらいはだいたいクリアしてて。その分利益も上がるわけですからね。 上がった分の2割は全部、社員に還元するっていうことにしています。その方が、ずっと分かりやすい予算にもなったし(笑)。
Q.時代と共に社員の意識改革も行っていますか? 生まれた時から携帯電話がある人たちが、もうウチの入社3年目、4年目ぐらいですよ。このデジタルネイティブと僕らアナログで、どっちがいいかなんてもう言ってもしょうがないですよね。 そこで1つ言ってるのは、「オッサンたちはもう若いヤツの邪魔するな」って。「アイツらがおもしろいと思ったことって俺たちには分からないんだから、邪魔すんな」と。 少子高齢化で人口減少していく中で。普通に考えても出演するヤツ、観るヤツ、作るヤツが全部これから減るんだと。それで今まで通りやってて、テレビ番組なり舞台が、そのまんまの規模とサイズ、動員力、視聴率を持ち続けるってことはあり得ないですよ。今20代そこそこの新入社員が、僕の歳になって仮に社長になった時、もう今のようなことやってられないですよね。 そしたらどういう選択肢があるか?国内だけで言ったらよそのシェアを取ることか、もしくは今まで売り上げが「0」だったところを「1」にすりゃあいいんだって思うわけですよ。すると、やっぱどう考えたって海外であり、インターネットなんです。 両方ともエンターテインメント界全体から見たら、現在の収入は限りなくゼロに近い。でも何が何でもそこを30年かけてやるんだっていう、そういう意識を 持たなければいけないって、もうずっと毎月の朝礼で言ってますよ。
Q.そのために、すでに実行していることもあるんでしょうか? アニメの声優とかアニメソングの子たちのセクションを別の会社にしました。それは現場で決めたことがこっちに伝わる間に、オッサンのフィルターがたくさん入るのを避けたかったから。 いわゆるユーチューバーとかデジタルサイネージとか、ああいうものに関しては、もうウチの会社の中で稟議通してどうのこうのっていうスピードじゃないんで。それより別の会社にして、彼らにもう別のホリプロを作る気持ちでやってくれって。新しいホリプロを作って、30年後にホリプロをぶっ壊すような覚悟でやってくれって話してます。
Q.そのように決断していくのはすごいですね。 いや、現状に甘んじてないで、改革して時代に対応いないといけないんです。 実は試算で出させたことがあって、ウチの会社が最悪の場合、2027年ぐらいに赤字に転落するって予測が出てるんです。それは人口統計から、新卒面接で応募者がどんどん減るっていう数字も入れて。でも、今の社員はみんな給料が上がっていくって前提でいくと、このままでは2027年後半には間違いなく赤字になるんです。だから利益額を上げていかなければいけない。 そのためには、自分たちで全部ハンドリングできるグランド・ライツを持っているコンテンツを、どれだけその間に集められるかで、収益構造がガラッと変わるんです。 ミュージカルでオリジナルのものを作っているのも、グローバル・ライツを僕らが持てるから。 外国でやれば、ロイヤリティが入るようになるんです。
Q.その辺りについて、もう少し詳しくお話し頂けますか? こと演劇に関しては、20年間蜷川幸雄さんと一緒にやっていたお陰で、僕は世界中を回らしてもらって、それで人脈ができたんですよ。 そしてホリプロの制作能力っていうのは、ロンドンや最近はニューヨークでも知られるようになりました。 蜷川幸雄さんって国内で思われている以上に、海外では一種のブランドなんです。だから世界ツアーも実現できたし、ロンドンであろうが、ニューヨークであろうが、シンガポールであろうが、ソウルであろうが、上海であろうが、お客はほとんど現地の人です。 ただ、今まで蜷川幸雄作品で海外へ行っても、ほとんど持ち出しで行けば必ず赤字なんです。逆に『ビリー・エリオット』(2017年)とか『メリー・ポピンズ』(2018年)とか、あれはお金払って権利を買ってきているものです。 そうじゃなくてこの人脈がまだ熱いうちに、僕らがグローバル・ライツを持っているものを向こうの人に売っていきたいんです。向こうからお金をもらう方に行きたいと。だからオリジナルのミュージカルを作るんです。『デスノート』や『生きる』はお陰様で大成功しました。『デスノート』は韓国でも大ヒットしたし。で、これがいずれその情報がどんどん伝わって行けば、ドーバー海峡を渡る日もあるかもしれない。
Q.黒澤映画の『生きる』をミュージカル化することにした経緯は? 『生きる』は、海外の人脈との雑談の中で、みんな『生きる』は知ってるってことに気が付いたんです。それで「いや『生きる』はあるな」と思いました。 でも、日本の演劇界の人も映画界の人も評論家も、「今さらあんな古い映画を」とか、「あんな不朽の名作をミュージカルにしても、チャチなモノになるに違いない」とか、「どうせ日本のオリジナルじゃロクなもんはできない」とみんなバカにしてたわけです。『デスノート』の時も、『生きる』の時も。でも僕らはそれを上回ることをやってきました。
Q.どのように世界に通じるミュージカルを作っていったんですか? 僕らは純日本製じゃなきゃダメなんて、そんなことに全然こだわってないんです。 日本人じゃミュージカルスコアを書ける世界的に通用する作曲家が育ってないから、全部アメリカから連れて来てるし。それをあるお客さんの中には、「外人が作ってるじゃないか」と批判する人がいるわけです。 でも僕からすると、「いつまでそんなこと言ってるの?インターネットの時代に」と思うんです。 一番優秀な人材を世界中から連れてきて作る。その総合権利を日本のホリプロが持ってるっていうことは、日本の国益に資することだと思います。外国でやってくれれば、遊んでいたってお金が入ってくるわけですから。そこを目指さないで、いつまでも外国にお金を払い続けてるって、座して死を待つようなもんでしょう。その収益が上がって来るから、次に投資ができるんです。 だからどこの国の人が作ろうと、誰が出てようと関係ない。どうせ海外に行ったら別の国の人がやるんだし。「日本人以外がやるなんて許せない」っていう言い方をする人がもし出てくるんだったら、国際化はあきらめた方がいいです。
Q.海外でこれから特に力を入れていこうという国がありますか? まず、カントリーリスクとか外交のリスクがあるけども、中国で収益を上げない限りは、絶対日本はうまくいかないと思ってるんですね。あとは、いわゆる東南アジア全域で。
Q.海外に仕事を広げていく上で、大切なことは何だと思いますか? まずは英語を自在に操れること。 ビジネス会話は英語です。韓国であろうと中国であろうと、みんな留学組がもうペラペラなんですよ。日本人だけが遅れていますよね。通訳連れてゾロゾロ…バブルの時の海外ロケの番組じゃないんだから、身一つで行ける様じゃないと。 そして相手を絶対下に見ない。日本だけが、もうやり過ぎなの。デパートで四角く四角く包装してくれる国なんか他には一国もない。彼らは包装をきちんとしましょうなんて、丁寧ですけどそんな非効率なこと一切考えてない。未来永劫そんなことやるつもりはない。だったら向こうに合わせなきゃいけない。 そして作品について反応のある国には、もう手弁当でも行くことにしています。 赤字になろうが何しようが関係ない。行って、「ウチはサービスいたしますよ」ってことをやっていかないと。日本でじっとしてて、「買いたいヤツがいれば売ってやるよ」みたいなことをしていたら、まず100%ムリだと思う。とにかく、声が掛かれば必ず行かせてます。
Q.では、インターネットの可能性はどんな所に感じていますか? 世界の中で見れば、日本語でやってるコンテンツっていうのは、それだけで拭えないデメリットですよね。日本の地上波放送に乗っけるために、日本人が日本語のコンテンツを作ってるだけであって。テレビ局が方針転換しない限りは、この番組が世界中を席捲するなんてことはないわけですよ。 確かに、アニメーションっていうのは違法・合法も含めて世界中に拡散しました。でもだからと言って、世界中のマーケットで言ったらシェア4%ぐらいしかないわけですよ。 すごいニッチなんです。でもありがたいことに、インターネットでつながってる から、1つの国に何十万といてくれなくても、方々足したら何十万・何百万になるわけですよ。そういうのはせっかくの文明の利器だから使った方がいいと思います。
Q.一方で、人気タレントを育てていくための戦略もあるんですか? ウチのタレントもマネージャーも、総じていい人なんですよ。 だから出し抜こうとか、引っ掛けてやろうとか、ウソをついてでもこれは成立させよう、みたいなことをやるのがいないですね。 またタレントはタレントで、礼儀正しくて、きちんと挨拶ができるとか。そこには、礼儀作法に厳しい和田アキ子っていう主柱がずっとありましたからね。ウチのタレントは礼儀作法ってすごい厳しい方だと思います。 そうしたこともあって、「ああ、あの人いい人だな」「あんな一生懸命やられたら、次も考えたくなるよな」っていうように思ってもらえることが、大切な「文化をプロモートする人間産業」ですね。
― 代表的なタレント
Q.ひたむき、誠心誠意、真面目ということがやっぱり一番大事なんですね。 だと思います。若い時から「いや、うまいな!」なんて思われる人なんてほとんどいないですし。誰にでも、少なくとも一生懸命やってることは伝わるじゃないですか。 で、一生懸命やって、次もクリアしよう、次もクリアしようと頑張ってるタレントとか、この仕事をなんとか次につなげたいと思ってる人は成功するし、来たものをなんとなく仕事だからやってるって人は、やっぱり今の時代残れない。そのぐらいプロフェッショナル化してきてますね。
ここからは社長のプライベートなことについてお尋ねします ― Q.堀社長は、小さい頃どんなお子さんでしたか? いや、悪ガキですよ。 和田アキ子が私のことを子供の頃から知ってるんで今でも言われますけど、「お前はね、私のこと好き?って聞いたら、お前なんかキライだって言った」っていうぐらい。 ニッポン放送に入って和田アキ子の番組が出来た時、「アッコさん、どうも」って挨拶したら、「お前よく更生したな」って(笑)。もうベテランのタレントからしたらとんでもない悪ガキで、無茶苦茶なエピソードは山ほどありますよ(笑)。
Q.小さい頃、タレントさんがご自宅に遊びに来ることもありましたか? ありましたよ。鈴木ヒロミツとかね、和田アキ子もそうですけど。 ウチの隣が寮だったんで、デビュー当時の榊原郁恵とかね、もうしょっちゅう会ってましたよ。
Q.同級生からうらやましがられませんでしたか? 小学校4年ぐらいまではなかったですね。 自分ちが何やってるかなんて、ほとんど理解してなかったですよね。「何でウチには、こんなに有名人が来るんだろう?」ぐらいにしか思ってなかったです。 それが『スター誕生』の辺りから、「あー、そういうことやってんだ」って。 子供なんでやっぱアイドルに興味がありますから、森昌子とか、山口百恵とかデビューした頃からですね。
Q.そういう環境にあって、お父様から特に教育されたことはありましたか? 親父とは会う機会が少ないんでね。向こうは夜中に帰って来るし、こっちは朝早く出かけるし。 ああしろ、こうしろってのはほとんどなくて、テレビなんかでも何時まででも見てました。 だから『11PM』なんかも普通に見てましたね(笑)。 ただウチのタレントが出てるコンサートなんかは、よく一緒に見に行ってました。当時で言うと、「新宿コマ劇場」の1カ月公演とか。普通に楽屋から入って行って、楽屋から出ていくっていう。 だから見ようと思ってないで見てたものが、たくさんあるんですよね。 三波春夫さんの息子さんが所属していた時なんか、三波春夫さんの歌舞伎座の舞台に行くわけですよ。子供ですから三波春夫さんの舞台なんか、観ても分からないじゃないですか。でも、第一部は芝居で石井均 一座をやってて。バカみたいにおもしろいわけですよ。もうケラケラ笑ってね。自分が好きなもんじゃないモノでも、おもしろいことがあるって当時から感じてましたね。
Q.子供の頃なりたかった職業は? コメディアンになりたかったですね。
Q.えっ!意外ですね(笑)。 親父にね、「今から欽ちゃんに会いに行くけど、お前一緒に行くか?」って言われたことがあって。当時『スター誕生』の時代ですから、司会だった萩本欽一さんと親父が、渋谷の喫茶店で話してるわけですよ。何をやったかなんて覚えてないですけど、唯一覚えてるのは、帰りがけに欽ちゃんが車に乗る時に、「お前さん、いいコメディアンになるよ」って言われて。それをずっと信じてた。 そして高校1年ぐらいの時に『欽ドン』のオーディションがあって、本当に受けようと思って親父に相談したんです。そしたら「それだけはやめてくれ。七光りだなんだってボロカスに言われるぞ」って。それであきらめたんです。 ただ今でも、どんなパーティで挨拶しようと、絶対一笑いはもらうっていうのは、必ずそれだけは守ってます。人を笑わせるのが好きで、昔はモノマネも良くやりました。
Q.どんなモノマネをしていたんですか? 僕が初めて買ったシングル盤っていうのは、ぴんからトリオの『女のみち』で、ぴんからトリオのモノマネもよくやったし。中学・高校の遠足の時とか、八代亜紀の『雨の慕情』を歌ったり。演歌ばっかり歌ってましたね。 あとは、学校の先生のモノマネですね。学園祭の出し物で、先生を生徒役にして、僕が先生をマネするっていうのとかね。
― お笑いと演歌が好きだったんですね。 Q.好きな食べ物とかありますか? 好きな食べ物というか、食べられるものがほとんどないんです(笑)。 野菜全然食べないし、生魚食べないし、コーヒー飲まないし、甘いもの嫌いだし。 子供が好きそうなものが好きなんです。オムライスとか、とんかつとかね。 特にハムカツとか置いてある店はもう一発合格で(笑)。それでもうビールがあれば十分。
Q.お酒もお好きなんですね? 一時は、結構ヘビーリカーを飲んでたんですけど、翌日に残るんで。普段はビールにウーロンハイですかね。本当は一番好きだったのは、ウイスキーのシングルモルトと純米吟醸だったんですけど、ニッポン放送時代に日本酒で痛い目に遭っちゃいまして。上司から「平日は日本酒飲むな」って命令が出て、それ以来今日まで守ってるんです。
いろいろな素顔が垣間見られて、ざっくばらんに話して頂き、自然に引き込まれました 最後に会社についてお伺いしたいです ― 先ほどもいいましたが、今までゼロだったマーケットを取りに行くって いうことですね。 リスクを恐れて何もやらないっていうことは、もう悪だと思うんです。 ま、番組はどうしても受注になるんで自分勝手にはできないんですけど、タレントでも、やっぱり今まで見たことないようなタレントは見てみたいし。インターネットの世界で、今まで僕らが培ってきた発想と全く違う種類の人たちが出てくることをやってみたいし。 特に演劇なんかだと、よそがやらないようなエッジが立ったものを常に作る。やっぱり演劇とか戯曲ってのは一種のジャーナリズムなんで、暗かろうが重かろうが世の中の人に、「こういうことが現実に起こったらどうですか?」っていう提案ができるような、そういう視点を持っていかなきゃいけないって思います。 「ゼネラリスト求む!」ってよく採用なんかで言ってるんですけど、「あれはちょっと苦手」だとか、「好きじゃない」とか言った瞬間にもう終わるんで。僕なんかも以前、全然インターネットなんか詳しくない頃にバーチャル・アイドルっていうのをやらされて。それで詳しくなっていって、「ひょっとしたら、この業界で一番アイツが知ってるんじゃないか?」みたいな誤解を生むほど勉強したし、させられました。 何でも勉強して、より賢くなり、より詳しくなり、より貪欲に向かっていく。それで今までいろいろやって来たことを糧にして、ずっと新しいことにチャレンジしていくっていうことですかね。
Q.そうするとマイナス思考にもならないでいい? マイナス思考っていうか…ポジティブ・シンキングって間違っていると僕は思っててね、僕は究極のネガティブ・シンキングなんです(笑)。もう「こうなったらヤバイ」とか、「最悪の場合こうだ」とか。いかに最悪の場合を避けるかっていうことの方に重きを置いて考える。採用面接なんかしてると、学生たちは無理に明るく見せてる。 目立つし、すごく自分はリーダーシップがあるんですみたいなことを言うしね。そんな人いないと思うんですよね。で、「まったくやらされてよ~」って言いながらも、僕も「やらされたことをまずちゃんとやりましょう」っていうのと、やらされてる間に「もうちょっとこうすりゃ、こうなるんじゃないか」とか。「ここは盲点だから、これを見過ごすと危ないからやっておこう」とかっていう、それが多分連続だったんで。それで準備万端整ってるから、「ヤバイ!」って実際の時に、結構落ち着いてできることもあるし。ポジティブ・シンキングだけでやってる人って、『なんかことが起こると楽天的に考えてもうやり過ごすか』、こういう状況だけどいずれ良くなるに違いないって他力本願になるし。やっぱり常に、特に現状の日本のどの業界もエンタメ業界に限らず、もう危機的状況なんだっていう。人で成り立ってた産業なのに、人手が足りなくなるっていうのは、もう死活問題なんだって。十分認識して、それで今までいろいろやって来たことを糧にして、新しいことをやるっていうことですかね。
本日は本当にインタビューに応えて頂きありがとうございました。 |
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