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澤田名誉会長放談

第2回は、ラジオ制作に携わりはじめてからテレビ局開局当初のお話です。

 

《第2回》

 

■演芸の道へ

民間放送のラジオ局の朝日放送制作部に就職して僕が選んだのは「演芸」の道でした。お笑いをやりたいと言ったのは良いのですが、右も左もわからない。ラジオでお笑い番組を聴いていたくらいの知識しかなかったのです。ラジオ制作部には「音楽」「演芸」「ドラマ」「教養」というセクションがあったのですが、当時、「演芸」を希望する人はすごく少なくて、自ら「お笑いやりたい!」って手を挙げた僕は珍しかったみたいで、すぐ希望通り決定しました。(笑)
僕は、映画が大好きで映画雑誌に批評を投稿するぐらいのマニアでしたが、悲劇は嫌いなんです。アメリカ映画が大好き、フランス映画はどうもという片寄ったファンで、なにがなんでもハッピーエンドじゃないとイヤだ。映画というのは娯楽なのだから楽しいものじゃなくてはいけないと思っている。いまでもそうです。人生、いろいろあって悲しいこともあるのに、悲しいものを選んで見ることはないとテレビ番組でもそう思ってつくってきた。いまでも「お笑い」は最高の娯楽だとかたくなに思っています。
僕のいた時代、ABC(朝日放送)は「お笑いのABC」と言われるくらいすごくお笑いが盛んで、コメディ番組『漫才学校』や漫才の中田ダイマル・ラケットの「お笑い街頭録音」が看板番組でした。
僕も『漫才学校』は毎回聞いていたくらい好きな番組でしたから、まず見学を希望したのは『漫才学校』の公開放送でした。公開放送だからお客さんを前にして出演者がパイプ椅子に座って、自分の番になったらマイクの前で台本を見ながらしゃべるだけ。お芝居をするわけでもアクションをするわけでもないのに、会場の300人くらいのお客さんが「ワーーッ」って笑うんですよ。これは1000人入る大きな会場でも一緒。映画や舞台と全く違うヘンな光景でしたが、これがラジオの世界なのだと理解したのです。

 

■テレビ局、開局

その後、テレビの民間放送がはじまりました。
「大阪テレビ」、新日本放送(現在の毎日放送)と朝日放送が共同して作った大阪初の民間放送のテレビ局でした。
まだまだテレビの台数も少なく、大阪でも街頭テレビの前は大勢の人が集まっていました。
先輩の中に、どうしてもテレビをやりたいと朝日放送を一度退職して、改めて
大阪テレビに就職した人や、朝日放送から出向で働いていた人もいました。
出向の人は良いのですが、勤続年数が違えば給料も違う時代でしたから、一度辞めた人は僕より先輩でも入社1年目の新人となるわけで、よほどテレビに魅力を感じていたのでしょう。
開局してすぐ見学に行きました。リハーサル風景と生放送の現場を見て、僕には無理だと思いました。スタッフも多いし、カメラの映像を見ながら番組の内容もチェックしなければならないテレビは、僕の仕事ではないと、ラジオに専念することにしました。
番組づくりの経験者が3人もテレビへ行ったため、新人の僕にも人気番組の公開放送の前座で漫才の録音をする仕事や、それを番組にする仕事がまかされました。入社前、2月くらいから体験入社して少しは仕事も判ってはいましたが、すぐ番組を担当させた上司の度胸には今思うとスゴイと言うしかありません。
おかげで3ヶ月たったころには東京放送との会議に出たり、野球中継の雨傘番組の2時間ものを東京の落語の購入番組だけで制作するという夢のようなこともやっていました。
私の番組も「お笑いのABC」と言われた放送局で人気芸人を起用して番組を作っていましたから聴取率も好調でした。
2年目には、聴取率トップ10の中に僕が作った番組が3つも入ったりしました。
3年目、自分で企画した『漫才教室』という番組がヒットし、民放祭に「漫才教室」と「浪曲歌合戦」「上方の寄席囃子」の3本出品してくれて、それが3本とも入賞、「漫才教室」は大賞という内示があり、天下を取ったような気になって年を越したら、テレビ制作への異動を言い渡されたんです。
正直、「これから!」と張り切ったときでしたから、行きたくはなかったですよね。
一晩考えて、「断ったらダメですか?」って聞いたら、「業務命令だ、断ったらクビ」と言われたので腹をくくりました。(笑)

 

■テレビのADとして再スタート

3月の民放祭の授賞式、なんにもうれしくなかった。(笑)
今までラジオでプロデューサーだったのが、テレビ制作に行ったとたん実績 ゼロからのスタート、ADとして再出発です。
未経験で入ってきてAD業務をやるなら良いのでしょうけど、なまじラジオでプロデューサーという立場で番組を作っていたという経験と自負があったので気持ちの切りかえが大変でした。ゼロからのスタート。しかも、テレビはゼロからはじめないとできないことばかりなんですよね。
当時テレビはやっと喫茶店で「野球中継」「プロレス中継」と貼り紙して客を呼んでいた時代になってはいましたが、通常番組は誰が見ているんだろうっていう状態。タレントさんもテレビに出るよりラジオに出た方が人気が上がるというような時代でした。五社協定というのがあって映画俳優はテレビに出ないから出演者探しに苦労した時代です。でも、一番違ったのは制作現場でした。

当たり前のことですが、ラジオは音だけでいいんですよ。一番手のこんだ公開コメディでもマイク2本と生バンドとタレントとアナウンサーがいて、それぞれにキューを出すと台本を読んでくれたり、音楽を演奏してくれる。リハーサルをきちんとしておけばリハーサル通り上がる。それをテープに収録して編集すれば番組が完成する。漫才番組の場合、勿論ネタミセで時間も測って録音するんですが、ウケるとどうしても長くなる。でも僕は編集が得意だったんで平気でした。
当時、もう生放送でなく、6mmテープに録音して編集が出来るようになっていた。お笑いの公開放送ですから、お客さんの笑い声が入ってる。
テープを下手に切ったら笑い声もそこでプツっと切れてしまうんですよ。
そこで僕は、テープを斜めに長く切って笑い声のレベルを合わせて笑いと笑いをつなぐ、そんな編集をしていたんです。
先輩達には、聞いてる人はそんなこと気にしてないから、そんな手間をかける必要ないって言われていたんですが、僕としてはそれができるのがいささか自慢で、「僕は編集が上手い」って自画自賛していました(笑)
ラジオでは現場も仕切って、編集も自信があって人気番組を作っているというのが当時の僕でしたが、テレビでは何の意味もない。生放送だから・・・。
当時のテレビディレクターを見ていて、こんなすごいことは天才じゃないとできないなと思いました。でもやらないと仕方がない。しかも僕がテレビに行かされた理由は大阪テレビが朝日放送と毎日放送のテレビに分裂するので、毎日放送へ抜けるディレクターの穴を埋めるためというわけですから、早くディレクターが出来るようにならないといけなかったのです。

 

■早くディレクターになりたい!

テレビ制作のADの仕事に、マスターでのネット番組のCMへの切り替えのキュー(指示)を出すというのがあったのですが、これがすごく苦手で。キュー標示が画面の隅に出るんですが見損ねる。ああいう機械的な仕事やカウントの逆読みはいまでも出来ない。失敗してCM飛ばしちゃって始末書書かされているADもいたりして、これは僕もいつか放送事故を起こすなと(笑)この仕事をやらないためにはどうすれば良いのか、そうだ、おもしろい番組を作ってヒットさせれば、きっとこういう現場の仕事はなくなるはずだと思ったので、早くディレクターになりたいと熱心にADの仕事に取り組みました。
ディレクターになったらADを使えなくてはいけない、そのためにはまずはADの仕事をキチンとやらないとディレクターになれないと考えたのです。その甲斐があったのか、最初の番組づくりは25分のコント番組のディレクターで、出演者は2人だけ、でも終わったら緊張の汗でズボンのお尻がビショビショになっていた。いや冷汗だったんでしょう。

 

■混乱するテレビ制作の現場

みんな一生懸命やっていましたが、次から次から慣れないスタッフが加わって現場はかなり混乱していたと思いますよ。でも、後発で関西テレビが開局したときに、みんなで放送を見ていたら、ADが画面に堂々と映ってる。小道具を座敷に準備しているのを役者がじっと見ている。明らかなミスなんですけど、現場の人たちは写っているのに気が付いていないから真剣なんです。「やってる、やってる」と笑って見てましたけど、笑っている先発のテレビ局でも同じようなことが日常的にあったと思います。
3つのカメラがあって、それぞれ3台のモニターがあるんですけど、ディレクターが今放送されているのがどの画面かが分からなくなったりすることがある。だからミスカットが出てしまうんです。
テレビの生放送では今でもそういうミスがある。
僕もそういう経験をしてますから、新人のディレクターには寛容ですよ(笑)

 

■テレビという仕事がある意味

約60年前、NHKと日本テレビの先人たちが、テレビの開局をめぐっていろんな努力をされた。共に競い合って番組づくりを続け、やがてテレビ局の中だけで制作するのではなく、テレビ番組制作という仕事が職業として成り立つ時代がきて、いま私達は協同組合に集結して、地位の向上を目指し、いい番組づくりとスタッフの育成に努力をしています。生まれた時からテレビをたのしんできて、いまテレビの番組作りを職業としている若いクリエーターに、現在の私達の仕事の仕組みがどうして出来上がったのかを知ってもらうために私の体験を語り続けていきたいと思います。

 

⇒第3回へ続く

 

インタビュー:三村 裕司(ネヴァーストップ)
写真:岡村宇之(ウッドオフィスグループ)
ライター:古木深雪