澤田名誉会長放談
民間放送の歴史が始まって約60年 今年は地上波デジタル放送移行という大きなできごとがあり、大きな変革の年となりました。
そこで、テレビ創成期より放送業界で活躍されてこられた澤田名誉会長にテレビとの関わりについて語っていただいた内容を3回に渡ってお送りいたします。
まさに古きを訪ねて新しきを知る・・・そんなお話が満載です。
さて第1回は、テレビのなかった戦時中から澤田名誉会長がラジオ局に就職するまでのお話しをお送りいたします。
≪第1回≫
■ラジオという情報源 ― 戦時中
NHKが日本で初のテレビ本放送を開始したのが昭和28年2月、8月には日本テレビが商業放送の第1号として開局、もうすぐテレビ史が60年になります。
僕が小学生の頃 ― 戦時中ですが、もちろんテレビはまだありません。テレビジョンは
アメリカには戦前からあるメディアで、日本でも昭和5年に高柳式テレビを昭和天皇がご覧になったということですが、当時の大衆は誰も知りませんでした。
その頃、日本ではラジオが主流の時代でした。でもそれは“空襲警報を聞くためのもの”だったとしか記憶していません。ところが空襲警報が的確な情報を伝えてくれない。警報発令を聞いた時は敵機がもう上空にきてたいたりする。レーダーのようなハイテクなもので敵機を発見して警報を出すというのではないから、正確性は全くありませんでした。
更に敗戦後、ラジオで戦況を伝えた大本営発表が全て嘘だったとわかったのはメディアにとって不幸なことでした。僕らの世代は常に情報を疑いながら大人になっていったのです。
■エンタテインメントに飢えていた時代
日本で最初に西洋文化が入ってきて大衆芸能に大きな影響を与えたのは映画、レコードだったんではないでしょうか。
もちろん、戦前から映画はありましたが、家の中で楽しむ娯楽といえばラジオとレコード。
土日も休みの上、連休や祭日がいっぱいある現代と違って、テレビが普及するまで、映画や演劇は“ハレの日”にわざわざ出かけていくものですし、娯楽映画は子供たちにとってはタブーの世界でした。僕は映画が大好きで人より多く見ている方だと思いますが、それでも楽しんで見たのは戦後のことです。戦争中は学校から揃って見に行く戦意高揚の映画くらいなもんで盛り場には補導というこわい人がいて取り締まってる。
今の時代では考えられないことですが、僕らの頃はそれが当たり前だったんです。
娯楽がものすごく制限された時代、実はそういう時代を経験した人間が今のテレビの根幹を作ってきた人たちなんですよね。エンタテインメントに飢えていた時代に育ったからからこそ、真剣に向き合っていたと思います。
■ラジオ放送局への就職
戦争が終わって10年、日本が混乱期から再建に向き始めた昭和30年、僕は大学を卒業しました。当時、文化系学生には求人が全くなく就職難の時代でした。
今もそうかもしれませんが技術系はすごく重宝されていましたし、これからの経済を担っていくということで経済系の学生も求められていました。
反面、文化系というのは新聞社と映画会社くらいしか就職口はなく、みんなそこを目指すので絶望的な状況でした。
映画会社は縁故がほとんどだったので僕には縁がなく、新聞社をねらって試験を受けましたが、見事に全部落ちました(笑)。
そろそろ受けるところもないかなっていう時期になって、ラジオ局が新入社員を募集をしていた。それも少人数、3人とかそれくらいの枠でしかも縁故募集。それなのに試験場に行くと200人はいましたね。
新聞社を受け続けていたおかげで、就職試験に出る一般常識の問題はほとんど頭に入っていましたから(笑)。
無事、ラジオ局 ― 朝日放送への就職を決めることができました。
■“放送”という仕事の将来性は・・・
就職できたのは良かったんですが、はっきり言ってその当時の商業放送というのはまったく将来性が
見えていない就職先だったと思います。 いつつぶれるかわからない不確かなもの、給料だって保証がなかったくらいです。
確か僕の初任給は3800円、いろんな手当がついてやっと10000円、
当時の平均初任給が11000円くらいの時代でしたから平均よりは薄給。
しかも分割払い、2回に分けてもらっていました。
その代わり、売り上げが上がったら赤飯が出たり、臨時ボーナスが出たり。
放送なんてそれくらいのビジネスだったんですよね。
営業が苦労して、一生懸命スポンサー廻りをしていたのを記憶しています。
僕は、制作で入りましたから営業はやらなかったんですが、企画の説明でスポンサーのところへ行ったりしていたので、
営業の苦労話はよく聞かされました。 誰が聞いているかもわからないような電波で出すCMでお金を取るというビジネスが成り立つとは思えなかった時代です。
「新聞の広告だと確認できるし、読んだあと弁当を包めるけどラジオは消えてしまうやないか」とか
「昼間、仕事をしている人は聞かないとしたら、一体誰が聞いてるかちゃんと教えてくれ」って言われたというエピソードを聞いたことがありますよ。
今でこそ、商業放送は大きなメディアとなったわけですが、当初このシステムを考えた人はどこまで勝算があったんでしょうか。
僕は就職したものの経営的な将来性はまったく期待していませんでした(笑)
ただ、誰もやっていないこと、これからの新しいビジネスであるということには魅力を感じていました。
■信じるのは自分だけ
僕が青春を過ごしたのは、終戦を境にいろいろな価値観が変わっていった時代でした。
理不尽なことが多かったですよね。
学校では、予科練(海軍飛行予科練習生)帰りの先輩方が牛耳っていて、後輩たちは何かといえばすぐ殴られたものです。彼等は予科練で先輩に殴られてるうちに終戦になってしまったので、中学へ戻ってきて八つ当たりしたんだと思います。
僕なんか背が高いというだけで殴られたこともありました。『青い山脈』という映画にもそういうシーンが出てくるから、全国でそんな理不尽がまかり通っていた時代だったんですよね。先生たちは先生たちで、敗戦で教える内容も180度変わったりで、昨日まで言ってたことと違うなんてことがあるわけですよ。これでは先生とか学校を信用しなくなつてしまう。先生が尊敬できないってのは不幸なことです。
僕の中には未だにそういう影響が残っている。
僕は今、「日本映像事業協会」という協会を設立して活動しているわけですが、自分達で知恵を出し合って力を合わせて、時代を切り開いていこうという考えは、そういった経験から生まれたのかもしれません。
戦後のあの激動の中を生きたことで生まれたアイデンティティは消えませんし、僕だけではなく、僕と同世代の人は皆持っているんじゃないでしょうか。
そういう人たちがテレビの創成期に関わり、新しいメディアを創っていったんです。
⇒第2回に続く
インタビュー:三村 裕司(ネヴァーストップ)
写真:岡村宇之(ウッドオフィスグループ)
ライター:古木深雪